『非論理的な人のための論理的な文章の書き方入門』

文章読本との出会いは中学生の頃である。『本当の学力は作文で劇的に伸びる』という本を高校受験の前に読んだ。「過去形」と「現在形」を交互に書く。形容詞で感情を表さない。等など、物語を記述する技術を学んだ。

高校生の時には、吉岡友治氏の文章読本を読んだ。小論文試験に対応するためである。問題・解決・根拠の三つの要素を文章に組み込むと、すっきりと議論がまとまることを学んだ。

この本の著者は、前者を「日記文」、後者を「クイズ文」と呼ぶ。筆者によると日本語の文章はこの二つに大まかに分けられるという。

このヒントになったのは、日本語の文が、助詞「は」の無いものと有るものに分かれるという事実です。(略)この二つの違いを文章レベルに広げれば、日記文とクイズ文の違いになります。

いいかえれば、主観的か客観的か、ともいえるかもしれない。前者が作文であり、後者が小論文である。

この区別をつけることが何に役に立つのか?具体的には、筋の通った議論をしたいときに有用であると考えられる。議論においては、真理に到達することを目的とする。真理には、論理が重ねられて達することができる。論理を支えるものは客観性だ。主観的な何でもかんでも思ったことをいっていても明確な結論は出ない。それゆえ、私の発言はクイズ文か?と問うことは議論において役立つと考えられる。

時に日記文においても、一見、クイズ文に見えるものがあろう。私は、○○は××だと思う。なぜなら△▽だからだ。というような形である。しかし、本質は形式にあるのではない。「主観的に述べるか」「客観的に述べるか」のいずれかなのだ。

この本をざっと読むと問題・結論・理由、という形式さえ守れば、なんでも伝わるかのように思ってしまうかもしれない。しかし形式の背後にある論拠を理解し、筆者の主張を誤解しないように留意すべきだろう。それが論理的な文章を書くための第一歩であるように思う。

著者のページ
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/kotoba0.htm

早起きは前の晩に決まる

高校生の頃、朝型の生活をしていた。午後10時に勉強を止め、午後10時30分ごろに布団に入り、午前4時に起き、勉強し、7時になったら家を出るという生活である。1年以上その生活が続いた。

それゆえ特に基準はないだろうが、早起きするためのノウハウを語る資格は多少なりともあると思う。こういうとやや大げさだが、ノウハウは至って単純である。

  • 寝る前に翌日の服を枕元においておく

高校生だから制服である。だから、ワイシャツにアイロンをかけて、ハンガーに下げておく。加えて、次の日の靴下やズボンを枕元においておく。これだけである。ひとことでいえば、今日できること(翌日の準備)は明日(翌朝)に伸ばすな、といったところだろうか。

早起きするための条件には他にも要因が考えられるだろう。前日の消耗度、とった睡眠時間、夕食をいつ食べたか、などだ。しかし、この「寝る前服準備」作戦は意外とうまくいく(失敗した経験はほとんどなかった)

おそらく理屈はこうである。そもそも次の日のことを考えると緊張感が高まる。その上、アイロンをかける、次の日の服をタンスから取り出すという「行動」を通じてより緊張が増す。このように緊張が増すがゆえに翌日の朝もめざめることができるのではないか。推測に過ぎないが、実際に手を動かす、というのが作業興奮*1を引き起こすのかもしれない。緊張が高まる、といってもそれで眠れなくなるということはないので安心してほしい。むしろ、すぐに出かけられるという安心感もあるので、適度な緊張感で眠れる。

ひとによっては「次の日の準備は万全、という安心感があるからこそ、二度寝してしまう」という人もいるかもしれない。それを防ぐコツは、朝起きた後に何をするかを決め、その準備をしておくことである。たとえば、私の場合は、勉強をしていたので机の上に朝一番に取り組む教材をおいて寝ていた。朝起きて、すぐに着替えて、机の前に座る。この一連の動作で一通り目も冴える。

しかし、これはあくまでも体験談に過ぎない。その点は留意していただきたいと思う。ただ、人によっては効果的かもしれない、と思い書いてみた。早起きにチャレンジしたい方は試してみてはいかがだろうか。

*1:池谷裕二『海馬』『高校生の勉強法』『のうだま』

『行為の経営学』

 大学受験生の頃の話である。私は受験で合格する「法則」を探して、あらゆる合格体験記を読みあさった。和田秀樹氏、荒川英輔氏、柴田孝之氏、等々、他にも数をあげればきりがない。当時は夢中になって読み、試していた。いうなればテレビゲームの「攻略本」を手にしている感覚である。試行錯誤している間に受験を終えていた。法則自体に疑いのまなざしをかけることはほとんどなかった*1

行為の経営学―経営学における意図せざる結果の探究

行為の経営学―経営学における意図せざる結果の探究

 本書の著者は、上記のような思考を<決定論的世界観>と呼ぶ。社会現象における「法則」は幻想にすぎないとする。モノが地上に落ちる、これは法則である。しかし、社会現象においてそういった「法則」が見つけられることはほとんどない、というのだ。なぜなら、社会を構成する人は意図を持った主体だからである。街で友だちを見かけたとき、テンションが高いときには友だちに声をかける気になるが、落ち込んでいる時には友だちを見つけなかったフリをして歩き去るだろう。同じ「街で友だちを見かける」という状況に直面したときにでも、自らの意図(うれしいときには誰かと話したくなるが、悲しいことがあるときには一人で考えていたいと思う気持ち)によってとる行動は異なるのである。一方、モノは意図を持たない。いつでも同じ「行動」をする。それゆえ、自然科学の法則は成り立つとする。
経営学は、一面においては企業がよりよい成果を出すために存在しているといってもいいだろう。もし、法則(たとえば「絶対儲かる10の法則」といったもの)が成り立たないとしたら、何のために経営学は存在しているのか。それに対する著者の解答が<行為の経営学>なのである。

著者はいう。

経営学者が経営の実践家からたびたび寄せられる疑問がある。(略)どうすれば成功するのか教えてほしい、と問われることもあるだろう。
(略)
この問いに対して経営学者に許されている答えが1通りしかないことはもはや明らかであろう。すなわち、「法則はないけれども、論理はある」

 つまり、経営学を学ぶのは、成功するための10のルールを「覚える」ためではない。ある状況に直面したときに<読み>を生成しするための知見を提供するところに存在意義があるとする。先述の受験勉強の例であれば「法則」を覚えること自体に価値があるのではなく、受験に「成功」した彼らが、どういった意図で勉強をすすめていったか、勉強をする過程でいかような<意図せざる結果>が起きたかを丹念に追い、成功の論理を理解することに価値がある。その作業を繰り返すことで「必ず成功する戦略」は立てられるわけではないが、筋の通った議論はできるようになるだろう、とするのである。
 巷ではフレームワーク、というのが流行っているそうである。その知見が、AならばB、ということを収集し、記憶するだけのものであれば、いつまでも人の受け売りという状況は避けられないであろう。

*1:その上、「法則」を本にまとめようとしていた

二軸ぶろぐ はてな編

はてなダイアリーでもブログを作ってみました。
もとはbloggerを使っていたのですが、
友人から「はてなの使い心地のよさ」を聞いたので作成してみました。
確かにサクサクと動いて快適です。
しばらく併用してみようと思います。
bloggerのブログ)
http://ideaplanter.blogspot.com/