『行為の経営学』

 大学受験生の頃の話である。私は受験で合格する「法則」を探して、あらゆる合格体験記を読みあさった。和田秀樹氏、荒川英輔氏、柴田孝之氏、等々、他にも数をあげればきりがない。当時は夢中になって読み、試していた。いうなればテレビゲームの「攻略本」を手にしている感覚である。試行錯誤している間に受験を終えていた。法則自体に疑いのまなざしをかけることはほとんどなかった*1

行為の経営学―経営学における意図せざる結果の探究

行為の経営学―経営学における意図せざる結果の探究

 本書の著者は、上記のような思考を<決定論的世界観>と呼ぶ。社会現象における「法則」は幻想にすぎないとする。モノが地上に落ちる、これは法則である。しかし、社会現象においてそういった「法則」が見つけられることはほとんどない、というのだ。なぜなら、社会を構成する人は意図を持った主体だからである。街で友だちを見かけたとき、テンションが高いときには友だちに声をかける気になるが、落ち込んでいる時には友だちを見つけなかったフリをして歩き去るだろう。同じ「街で友だちを見かける」という状況に直面したときにでも、自らの意図(うれしいときには誰かと話したくなるが、悲しいことがあるときには一人で考えていたいと思う気持ち)によってとる行動は異なるのである。一方、モノは意図を持たない。いつでも同じ「行動」をする。それゆえ、自然科学の法則は成り立つとする。
経営学は、一面においては企業がよりよい成果を出すために存在しているといってもいいだろう。もし、法則(たとえば「絶対儲かる10の法則」といったもの)が成り立たないとしたら、何のために経営学は存在しているのか。それに対する著者の解答が<行為の経営学>なのである。

著者はいう。

経営学者が経営の実践家からたびたび寄せられる疑問がある。(略)どうすれば成功するのか教えてほしい、と問われることもあるだろう。
(略)
この問いに対して経営学者に許されている答えが1通りしかないことはもはや明らかであろう。すなわち、「法則はないけれども、論理はある」

 つまり、経営学を学ぶのは、成功するための10のルールを「覚える」ためではない。ある状況に直面したときに<読み>を生成しするための知見を提供するところに存在意義があるとする。先述の受験勉強の例であれば「法則」を覚えること自体に価値があるのではなく、受験に「成功」した彼らが、どういった意図で勉強をすすめていったか、勉強をする過程でいかような<意図せざる結果>が起きたかを丹念に追い、成功の論理を理解することに価値がある。その作業を繰り返すことで「必ず成功する戦略」は立てられるわけではないが、筋の通った議論はできるようになるだろう、とするのである。
 巷ではフレームワーク、というのが流行っているそうである。その知見が、AならばB、ということを収集し、記憶するだけのものであれば、いつまでも人の受け売りという状況は避けられないであろう。

*1:その上、「法則」を本にまとめようとしていた